周作人研究〜周作人という人物について

 周作人というのは近代中国の文人作家です。生まれたのは1885年ですから、今から100年以上前の人です。ちょうど百年前の1920年に満35歳、北京大学教授、新文化運動のオピニオンリーダーの一人として旺盛な活動をしていました。その時に武者小路実篤が提唱した「新しき村」に共鳴して宮崎にあった村を訪問したこともあります。

 彼は、20世紀中国の文学、思想、学術の形成過程に非常に大きな影響を与えた存在ですが、20世紀の中国社会の主要通念に2つの点で大きく背馳する(つまりある意味で反中国的な)人物でもありました。一つは、左翼ではなかったこと、もう一つは、戦時中対日協力を行ったことです。この2つにおいて周作人は深い烙印を押されています。

 まず一つ目の、非左翼という点について。

 彼は、1920年代後半から、左翼からほとんど罵詈雑言に近い批判を山のように受けました。文化大革命後に書かれた論文の中にすら批判があります。ただし、彼自身は自分のことを直接「左翼」でないと言ったことはありませんし、社会主義的理想を語ったこともあります。戦前戦中の日本軍は、彼を「赤」つまり左翼と見て警戒していたようです。ただ、彼は、暴力を辞さない共産主義革命や徹底攻撃的な階級闘争論に決して共鳴することはなかった、ということです。

 もう一つの、戦時中の対日協力について。

 詳しくは木山英雄先生の本を読んで下さい。バカ高いので、中古品を買ったり、図書館で借りたりして読むといいと思います。しかし、おそらく百年後も読まれるような唯一無二の重量級(中身が)の本なので、関心がある人は買うことを勧めます。

 簡単に言うと、彼は明確なナショナリストでした。事実1920年代には勇猛な排日論者でした。しかし、多くの中国知識人のように南方へ逃れようとせず、居残った北京で日本側からの要請を拒否し続けることができずに、ついに傀儡政権下の要職を歴任するに至りました。それは対等な二国間戦争における単なる通敵行為ではありません。侵略者に対する協力行為なのです。

 今もしある支配者が、納得のいく道理もなく(ほとんどそうでしょうが)、多くの日本人を殺傷して日本を軍事的に占領し、傀儡政権を打ち立てて恐怖政治を行ったとします。ほとんどの人はそのことを当然のこととして受け入れることはできないでしょう。道理のない侵略と支配に憤激する者ができることは、軍事的に対抗するか逃げることしかありません。むろん、満州族支配下清朝初期の社会をひっそりと暮らした善男善女のような生を選択することもできます(支配者はそれを狙う)が、周作人はそう生きていくためにはあまりに有名でありすぎました。支配者にとって利用価値が極めて高かったのです。

 とにかく、逃げようとせず傀儡政権の重要ポストに就職するような人間は、侵略してきた支配者を喜ばせるだけで、言わばサイテーの存在でしょう。周作人も、北京にいる家族のもとで、のらりくらりと逃げようとしたのですが、テロに会ったり、親友が亡くなったりして、結局追い詰められ逃げ切れませんでした。彼はこのことによって「漢奸」の烙印を押され、現代中国におけるある種の暗黒人物となってしまいました。実際は、様々な領域において卓越した足跡を残し、今なおその著述が多くの読者を引きつける作家でありながら、中国の主流・正統から離れたくないと考える人々は、周作人に対して、最近は批判しないまでも、なるべく肯定的に語らないように、肯定的な文脈の対象から彼を除外するようにしているのが現状です。

 私はなるべく彼を客観的に見たいと考えてきました。その中で、彼にとっての“頽廃”デカダンス概念が、彼の対象としての面白さ、魅力(狡猾さ、醜さ、暗さ、弱さなど一切含めての魅力)の核心にあるのではないかと考え、「生活の藝術」というコンセプトを中心に、論考をまとめました。この場合の「頽廃」は日本語の普通の意味の頽廃とは違うので、その点に注意して7年前のものになりますが、私の本(2012年刊行)を読んでもらえればありがたいと思います。(その後も私の周作人論は少しずつバージョンアップさせています。他のページで研究内容を紹介する予定です。)