周作人研究〜周作人という人物について(2)

 前回は、周作人という人の政治・歴史面を、概観しました。彼には、近現代中国社会の主流・正統に反する二つの側面(非左翼、「漢奸」)がありました。それらは、中華人民共和国建国物語の文脈で言えば反中国的です。しかし、そうではなく、彼にはむしろ非常に中国的と言える面があります。

 まず政治面から言うと、中華人民共和国建国物語の文脈では、周作人は極少数の否定的暗黒人物であるように見えますが、逆に周作人の側から見ると、周作人の営みは、現在の中国社会が持っている重要な性格を形成するうえで非常に力があったようにも見えます。それは、ナショナリズム国民意識の形成です。散り散りの砂のようだとも言われた中国人は五四運動(1919年)において初めて強烈な国民意識に目覚めたわけですが、彼の論調は、多くの場合中国人の国民意識に訴えようとするものでした。粗暴な排他主義国家主義に反対しつつも、1920年代半ばから後半にかけて彼が提唱した排日運動は、内容といい、口調といい、昨今の反日論そっくりです。(リアリストとしての彼の出処進退は、結果として、ナショナリストとしての彼の認識や主張と齟齬をきたすものだったわけですが。)

 文化面から言うと、彼は、中国の伝統のある部分を珍重し、受け継ぎ、そこに新たな息吹を吹き込んで近代化したという意味で、非常に中国的です。今も根強い固定ファンが(多数ではないとしても)いて、周作人の選集や文集は様々な出版社からずっと刊行され続けていますが、その理由の一つは、彼のこうした中国性だろうと思われます。実を言うと、彼は、師章炳麟等の影響を受け、宋代以降の中国文化(礼教、科挙、宦官、纏足等)を徹底的に嫌悪し排撃しました。中国社会を全般的に批判して「倫理の自然化」(社会倫理を自然なものに変える)と「道義の事功化」(正しい必要なことを着実に実現していく)が必要だと論じました。しかし、内実として、彼が宋代以降の主流中国文化の影響を完全に排除しているわけではなく、自覚的あるいは無自覚に取捨選択して受け継いでいたりします。士太夫中心の大家族環境下で育まれたものは、どうしようもなく根を下ろし血肉化されています。また、出身地紹興周辺の郷土色豊かな土俗文化にも親しんでいます。彼の中国性は、日本の脅威あるいは占領下の抑圧の中で、彼自身によって、より鮮明に確認されることになり、それが極めて隠微ながら、支配者に対する抵抗の言辞ともなりました。