亡父のこと

 父が逝ったのは1998年、私が36歳の時。父は63歳だった。

 私はその前年末に脳出血で1ヶ月入院し、年が明けてから3ヶ月ほど自宅療養を強いられていた。入院中、父は田舎の三重から何度か横浜まで見舞いに来てくれた。ある時は足にけがをしたといって、足を引きずってやってきた。しかもゆっくり眠れない深夜バスでやってきてくれた。

 もともと肝臓に深刻な病気があったので、突然というわけではなかったが、がまんできないようなじんましんが出るとかいって、検査入院したと言っているうちに、あれよあれよというまに、もうだめだから一度顔を見に来い、という知らせをもらった。亡骸に会いに行った7月14日もよく晴れた暑い日だったが、その一週間程度前のその日も確かよく晴れた暑い日だったように思う。

 病院のベッドに座る父を見たとき、父にはすでに腹水がかなりたまっていた。弟も同じく遠隔地から亀山に戻っていた。彼は医薬に関わる仕事をやっていたので、よく知っていたのだろう、お腹の膨れた父を見て目頭を拭っていた。そして、父は私たちと共に、私たちを育てた家へと戻った。水入らずの最後の一晩を過ごすために。父は、家の一番広い八畳間に横たわりながら、お前らみたいなええ息子に恵まれてオレは幸せや、と二度三度言った。「近所の人やみんなにえらいうらやましがられたで」とうれしそうに言った。

 翌日病院に戻り、父は再度ベッドに横たわった。私たち兄弟は別れ際に父と握手をした。「元気での。」父は元気そうにそう言った。私が聞いた父の最後の言葉だ。その時の父の手は太くてごつかった。あの時の握手の感触は忘れられない。 

 父は、亀山の山村、辺法寺に五人兄弟の末っ子として生まれた。一つ上の兄は三重大学を卒業して英語教師になり、小学校の校長まで務めた。父も大学に行きたかったらしいが、結局四日市工業高校の夜間にしか行かせてもらえなかった。夜間の工業高校に通いながら、その時から工場(富士電機四日市工場)で働いていたようだ。その後父は一度も職場を変えることなく、退職まで勤めあげた。私たち兄弟の学歴に対して熱心だったのは、そんな自身の経歴による。伯父(父の兄)の反対にも関わらず、私を地元の公立中学に入れずに、進学校と知られていた私立中学に通わせたのは、父の執念だっただろう。結果として私たち兄弟が獲得した学歴は申し分なかった。この点で父の後半生は満足のいくものだっただろう。

 父は母の家に婿養子として迎えられた。しかし母の父母はいなかった。母の母(つまり母方の祖母)は戦争末期に腸チフスに罹った6歳の母を看病しているうちに自身も感染し若くして亡くなっていた。

 母の父(母方の祖父)は、亀山神社の禰宜の家の出で、三重県女子師範学校の音楽教師だった。この学校の校舎は、実家から400メートル程度のところにあったらしい。現在の亀山東小学校のある場所である。私が6歳から12歳まで通ったところである。

 母の父は、父同様婿養子で、仔細はわからないが、母の母死後、娘(母姉妹)を残して家を出ていた。だから、母の家には、母姉妹と母の祖父母だけだった。父は、娘を置いて家を出た祖父を時に批判していた。(母の父には彼なりの深刻な事情があっただろうが)

  私が子どものころ、再婚して田丸で暮らしていたその祖父が、奥さんといっしょに、我が家を訪れたことがあった。その時奥さんがおいしそうな手製のぼたもちを、お重に入れて持ってきていたのを覚えている。かなり小さい幼少時だったのだろう、どんな雰囲気で、どんな会話が交わされたのか、さっぱり記憶にない。家の物置に古い手紙がたくさん取ってあって、切手を集めていた私は、見たことの無い古切手を感激して見ていたが、そのどれもが、神埼という苗字の祖父宛の封筒や葉書だった。円満に家を出たのなら、こうしたものも持っていったはずだろうから、戦争末期か終戦直後か、いずれにせよ、食料が不足していた社会全体の混乱の中で、慌てて家を出ていったのではないかと想像する。

 あとで聞くところによると、その祖父は田丸という伊勢に近いところに新しい家族と住んだ。痩せ型で、町のピアノの先生をしながら、地域の俳句同人になって俳句をたしなむという、穏やかな余生を送ったという。祖父は、私の弟に似た、のほほんとした趣味人だったように思える。朝、句会に赴き、外出先で脳溢血を起こし亡くなったという。

 そういう祖父を批判する父には、あまり趣味人らしいところはなかった。どちらかというとあくせくしていることが多かったように思う。父が持っていた趣味らしいことというと、将棋と中国語だろうか。将棋は小さい頃から何度も指してもらったが、父のは早指しで、私はすぐ長考する性質だったので、父子の遊びとしては長続きしなかった。父は近所や町の将棋仲間と指すこともよくあった。

 中国語はなぜ?という気はするが、父は元来中国と中国人に対して、非常に強い好感を抱いていた。所謂「残留孤児」なども、中国人が子どもを大切に育てる民族である証拠として珍重していた。その一方で、父は韓国(朝鮮)人に対する嫌悪感を隠さなかった。個人に対する民族差別的な嫌悪感ではなく、彼ら全体が日本人に対して持つ批判的攻撃的な態度を嫌がっていた。(あのころまだ日中間は交流が始まったばかりで、中国人の日本人に対する批判的攻撃的な姿勢はあまり顕在化していなかった。)

  とにかく、理由ははっきりとはわからないが、ちょうど私が大学に入学して中国語を履修する(1980年)前後に、市内の同好の士を集めて、中国語学習を始めていた。最初のころは、声調の四声がめちゃくちゃで、からきし様になっていなかったのだが、私が長期留学(1987-89)から帰国したあとあたりからだろうか、発音する中国語も様になってきて、ついに、ツアー・コンダクターに連れられずに、父が母だけを連れて、北京旅行までやってのけてしまったのには驚かされた。何度も中国に行っている私でも、初めて入る飲食店では、注文に困る場合があるのに、何もできず何も知らない母を引き連れて、食堂に入って食事を注文してちゃんと食べることができたらしい。しかも父にとってもその体験がかなりおもしろかったらしい。私としても、この話は非常に痛快だった。父の人間としてのおもしろさが出ているエピソードだと思う。

 息子が言うのもなんだが、父は実におもしろい人物だった。それは特に私が引き継いでいない部分に顕著だったように思う。見知らぬ人にも気軽に話しかけ、いつの間にか世間話でもりあがったり、政治家の後援会に入って選挙運動を展開したり、近所の未婚者の仲人を買って出たり・・・。幾分私には理解不能な狂気を感じさせるところもあった。しかし、その狂気は、加害的なものではなかった。突然「おかあちゃん!」と大声を出したり、同じ事を繰り返し執拗に説いて語ったりしただけだった。うんざりすることはあっても、ひどい目に会ったという記憶はない。もちろん私が嫌だなと思うことはいろいろあったし、思春期のころは、父とあまり口を利かない時期があったように思う。しかし、晩年は連絡もたまで、帰省して会った時などは、よく話も弾んだ。

 だから、まだまだ父とはいろんな話がしたかった。思えば、意識して親孝行みたいなことはやってあげられなかった。あのころ父がこの世からいなくなるということは、まったく想像していなかった。のん気すぎた。だから逆に喪失感も大きかった。

                         2011年7月30日記

                         2020年3月20日修正補記