周作人研究〜周作人という人物について(2)

 前回は、周作人という人の政治・歴史面を、概観しました。彼には、近現代中国社会の主流・正統に反する二つの側面(非左翼、「漢奸」)がありました。それらは、中華人民共和国建国物語の文脈で言えば反中国的です。しかし、そうではなく、彼にはむしろ非常に中国的と言える面があります。

 まず政治面から言うと、中華人民共和国建国物語の文脈では、周作人は極少数の否定的暗黒人物であるように見えますが、逆に周作人の側から見ると、周作人の営みは、現在の中国社会が持っている重要な性格を形成するうえで非常に力があったようにも見えます。それは、ナショナリズム国民意識の形成です。散り散りの砂のようだとも言われた中国人は五四運動(1919年)において初めて強烈な国民意識に目覚めたわけですが、彼の論調は、多くの場合中国人の国民意識に訴えようとするものでした。粗暴な排他主義国家主義に反対しつつも、1920年代半ばから後半にかけて彼が提唱した排日運動は、内容といい、口調といい、昨今の反日論そっくりです。(リアリストとしての彼の出処進退は、結果として、ナショナリストとしての彼の認識や主張と齟齬をきたすものだったわけですが。)

 文化面から言うと、彼は、中国の伝統のある部分を珍重し、受け継ぎ、そこに新たな息吹を吹き込んで近代化したという意味で、非常に中国的です。今も根強い固定ファンが(多数ではないとしても)いて、周作人の選集や文集は様々な出版社からずっと刊行され続けていますが、その理由の一つは、彼のこうした中国性だろうと思われます。実を言うと、彼は、師章炳麟等の影響を受け、宋代以降の中国文化(礼教、科挙、宦官、纏足等)を徹底的に嫌悪し排撃しました。中国社会を全般的に批判して「倫理の自然化」(社会倫理を自然なものに変える)と「道義の事功化」(正しい必要なことを着実に実現していく)が必要だと論じました。しかし、内実として、彼が宋代以降の主流中国文化の影響を完全に排除しているわけではなく、自覚的あるいは無自覚に取捨選択して受け継いでいたりします。士太夫中心の大家族環境下で育まれたものは、どうしようもなく根を下ろし血肉化されています。また、出身地紹興周辺の郷土色豊かな土俗文化にも親しんでいます。彼の中国性は、日本の脅威あるいは占領下の抑圧の中で、彼自身によって、より鮮明に確認されることになり、それが極めて隠微ながら、支配者に対する抵抗の言辞ともなりました。

 

 

 

 

亡父のこと

 父が逝ったのは1998年、私が36歳の時。父は63歳だった。

 私はその前年末に脳出血で1ヶ月入院し、年が明けてから3ヶ月ほど自宅療養を強いられていた。入院中、父は田舎の三重から何度か横浜まで見舞いに来てくれた。ある時は足にけがをしたといって、足を引きずってやってきた。しかもゆっくり眠れない深夜バスでやってきてくれた。

 もともと肝臓に深刻な病気があったので、突然というわけではなかったが、がまんできないようなじんましんが出るとかいって、検査入院したと言っているうちに、あれよあれよというまに、もうだめだから一度顔を見に来い、という知らせをもらった。亡骸に会いに行った7月14日もよく晴れた暑い日だったが、その一週間程度前のその日も確かよく晴れた暑い日だったように思う。

 病院のベッドに座る父を見たとき、父にはすでに腹水がかなりたまっていた。弟も同じく遠隔地から亀山に戻っていた。彼は医薬に関わる仕事をやっていたので、よく知っていたのだろう、お腹の膨れた父を見て目頭を拭っていた。そして、父は私たちと共に、私たちを育てた家へと戻った。水入らずの最後の一晩を過ごすために。父は、家の一番広い八畳間に横たわりながら、お前らみたいなええ息子に恵まれてオレは幸せや、と二度三度言った。「近所の人やみんなにえらいうらやましがられたで」とうれしそうに言った。

 翌日病院に戻り、父は再度ベッドに横たわった。私たち兄弟は別れ際に父と握手をした。「元気での。」父は元気そうにそう言った。私が聞いた父の最後の言葉だ。その時の父の手は太くてごつかった。あの時の握手の感触は忘れられない。 

 父は、亀山の山村、辺法寺に五人兄弟の末っ子として生まれた。一つ上の兄は三重大学を卒業して英語教師になり、小学校の校長まで務めた。父も大学に行きたかったらしいが、結局四日市工業高校の夜間にしか行かせてもらえなかった。夜間の工業高校に通いながら、その時から工場(富士電機四日市工場)で働いていたようだ。その後父は一度も職場を変えることなく、退職まで勤めあげた。私たち兄弟の学歴に対して熱心だったのは、そんな自身の経歴による。伯父(父の兄)の反対にも関わらず、私を地元の公立中学に入れずに、進学校と知られていた私立中学に通わせたのは、父の執念だっただろう。結果として私たち兄弟が獲得した学歴は申し分なかった。この点で父の後半生は満足のいくものだっただろう。

 父は母の家に婿養子として迎えられた。しかし母の父母はいなかった。母の母(つまり母方の祖母)は戦争末期に腸チフスに罹った6歳の母を看病しているうちに自身も感染し若くして亡くなっていた。

 母の父(母方の祖父)は、亀山神社の禰宜の家の出で、三重県女子師範学校の音楽教師だった。この学校の校舎は、実家から400メートル程度のところにあったらしい。現在の亀山東小学校のある場所である。私が6歳から12歳まで通ったところである。

 母の父は、父同様婿養子で、仔細はわからないが、母の母死後、娘(母姉妹)を残して家を出ていた。だから、母の家には、母姉妹と母の祖父母だけだった。父は、娘を置いて家を出た祖父を時に批判していた。(母の父には彼なりの深刻な事情があっただろうが)

  私が子どものころ、再婚して田丸で暮らしていたその祖父が、奥さんといっしょに、我が家を訪れたことがあった。その時奥さんがおいしそうな手製のぼたもちを、お重に入れて持ってきていたのを覚えている。かなり小さい幼少時だったのだろう、どんな雰囲気で、どんな会話が交わされたのか、さっぱり記憶にない。家の物置に古い手紙がたくさん取ってあって、切手を集めていた私は、見たことの無い古切手を感激して見ていたが、そのどれもが、神埼という苗字の祖父宛の封筒や葉書だった。円満に家を出たのなら、こうしたものも持っていったはずだろうから、戦争末期か終戦直後か、いずれにせよ、食料が不足していた社会全体の混乱の中で、慌てて家を出ていったのではないかと想像する。

 あとで聞くところによると、その祖父は田丸という伊勢に近いところに新しい家族と住んだ。痩せ型で、町のピアノの先生をしながら、地域の俳句同人になって俳句をたしなむという、穏やかな余生を送ったという。祖父は、私の弟に似た、のほほんとした趣味人だったように思える。朝、句会に赴き、外出先で脳溢血を起こし亡くなったという。

 そういう祖父を批判する父には、あまり趣味人らしいところはなかった。どちらかというとあくせくしていることが多かったように思う。父が持っていた趣味らしいことというと、将棋と中国語だろうか。将棋は小さい頃から何度も指してもらったが、父のは早指しで、私はすぐ長考する性質だったので、父子の遊びとしては長続きしなかった。父は近所や町の将棋仲間と指すこともよくあった。

 中国語はなぜ?という気はするが、父は元来中国と中国人に対して、非常に強い好感を抱いていた。所謂「残留孤児」なども、中国人が子どもを大切に育てる民族である証拠として珍重していた。その一方で、父は韓国(朝鮮)人に対する嫌悪感を隠さなかった。個人に対する民族差別的な嫌悪感ではなく、彼ら全体が日本人に対して持つ批判的攻撃的な態度を嫌がっていた。(あのころまだ日中間は交流が始まったばかりで、中国人の日本人に対する批判的攻撃的な姿勢はあまり顕在化していなかった。)

  とにかく、理由ははっきりとはわからないが、ちょうど私が大学に入学して中国語を履修する(1980年)前後に、市内の同好の士を集めて、中国語学習を始めていた。最初のころは、声調の四声がめちゃくちゃで、からきし様になっていなかったのだが、私が長期留学(1987-89)から帰国したあとあたりからだろうか、発音する中国語も様になってきて、ついに、ツアー・コンダクターに連れられずに、父が母だけを連れて、北京旅行までやってのけてしまったのには驚かされた。何度も中国に行っている私でも、初めて入る飲食店では、注文に困る場合があるのに、何もできず何も知らない母を引き連れて、食堂に入って食事を注文してちゃんと食べることができたらしい。しかも父にとってもその体験がかなりおもしろかったらしい。私としても、この話は非常に痛快だった。父の人間としてのおもしろさが出ているエピソードだと思う。

 息子が言うのもなんだが、父は実におもしろい人物だった。それは特に私が引き継いでいない部分に顕著だったように思う。見知らぬ人にも気軽に話しかけ、いつの間にか世間話でもりあがったり、政治家の後援会に入って選挙運動を展開したり、近所の未婚者の仲人を買って出たり・・・。幾分私には理解不能な狂気を感じさせるところもあった。しかし、その狂気は、加害的なものではなかった。突然「おかあちゃん!」と大声を出したり、同じ事を繰り返し執拗に説いて語ったりしただけだった。うんざりすることはあっても、ひどい目に会ったという記憶はない。もちろん私が嫌だなと思うことはいろいろあったし、思春期のころは、父とあまり口を利かない時期があったように思う。しかし、晩年は連絡もたまで、帰省して会った時などは、よく話も弾んだ。

 だから、まだまだ父とはいろんな話がしたかった。思えば、意識して親孝行みたいなことはやってあげられなかった。あのころ父がこの世からいなくなるということは、まったく想像していなかった。のん気すぎた。だから逆に喪失感も大きかった。

                         2011年7月30日記

                         2020年3月20日修正補記

周作人研究〜周作人という人物について

 周作人というのは近代中国の文人作家です。生まれたのは1885年ですから、今から100年以上前の人です。ちょうど百年前の1920年に満35歳、北京大学教授、新文化運動のオピニオンリーダーの一人として旺盛な活動をしていました。その時に武者小路実篤が提唱した「新しき村」に共鳴して宮崎にあった村を訪問したこともあります。

 彼は、20世紀中国の文学、思想、学術の形成過程に非常に大きな影響を与えた存在ですが、20世紀の中国社会の主要通念に2つの点で大きく背馳する(つまりある意味で反中国的な)人物でもありました。一つは、左翼ではなかったこと、もう一つは、戦時中対日協力を行ったことです。この2つにおいて周作人は深い烙印を押されています。

 まず一つ目の、非左翼という点について。

 彼は、1920年代後半から、左翼からほとんど罵詈雑言に近い批判を山のように受けました。文化大革命後に書かれた論文の中にすら批判があります。ただし、彼自身は自分のことを直接「左翼」でないと言ったことはありませんし、社会主義的理想を語ったこともあります。戦前戦中の日本軍は、彼を「赤」つまり左翼と見て警戒していたようです。ただ、彼は、暴力を辞さない共産主義革命や徹底攻撃的な階級闘争論に決して共鳴することはなかった、ということです。

 もう一つの、戦時中の対日協力について。

 詳しくは木山英雄先生の本を読んで下さい。バカ高いので、中古品を買ったり、図書館で借りたりして読むといいと思います。しかし、おそらく百年後も読まれるような唯一無二の重量級(中身が)の本なので、関心がある人は買うことを勧めます。

 簡単に言うと、彼は明確なナショナリストでした。事実1920年代には勇猛な排日論者でした。しかし、多くの中国知識人のように南方へ逃れようとせず、居残った北京で日本側からの要請を拒否し続けることができずに、ついに傀儡政権下の要職を歴任するに至りました。それは対等な二国間戦争における単なる通敵行為ではありません。侵略者に対する協力行為なのです。

 今もしある支配者が、納得のいく道理もなく(ほとんどそうでしょうが)、多くの日本人を殺傷して日本を軍事的に占領し、傀儡政権を打ち立てて恐怖政治を行ったとします。ほとんどの人はそのことを当然のこととして受け入れることはできないでしょう。道理のない侵略と支配に憤激する者ができることは、軍事的に対抗するか逃げることしかありません。むろん、満州族支配下清朝初期の社会をひっそりと暮らした善男善女のような生を選択することもできます(支配者はそれを狙う)が、周作人はそう生きていくためにはあまりに有名でありすぎました。支配者にとって利用価値が極めて高かったのです。

 とにかく、逃げようとせず傀儡政権の重要ポストに就職するような人間は、侵略してきた支配者を喜ばせるだけで、言わばサイテーの存在でしょう。周作人も、北京にいる家族のもとで、のらりくらりと逃げようとしたのですが、テロに会ったり、親友が亡くなったりして、結局追い詰められ逃げ切れませんでした。彼はこのことによって「漢奸」の烙印を押され、現代中国におけるある種の暗黒人物となってしまいました。実際は、様々な領域において卓越した足跡を残し、今なおその著述が多くの読者を引きつける作家でありながら、中国の主流・正統から離れたくないと考える人々は、周作人に対して、最近は批判しないまでも、なるべく肯定的に語らないように、肯定的な文脈の対象から彼を除外するようにしているのが現状です。

 私はなるべく彼を客観的に見たいと考えてきました。その中で、彼にとっての“頽廃”デカダンス概念が、彼の対象としての面白さ、魅力(狡猾さ、醜さ、暗さ、弱さなど一切含めての魅力)の核心にあるのではないかと考え、「生活の藝術」というコンセプトを中心に、論考をまとめました。この場合の「頽廃」は日本語の普通の意味の頽廃とは違うので、その点に注意して7年前のものになりますが、私の本(2012年刊行)を読んでもらえればありがたいと思います。(その後も私の周作人論は少しずつバージョンアップさせています。他のページで研究内容を紹介する予定です。)

 

 

 

中国語2019(TLPクラス:通年)

 東大では、1年生の時に、既修外国語(多くは英語)と未修外国語、二ヶ国語を必修科目として学ぶことになっています。旧帝大だと同様のカリキュラムを展開している大学は多いようですが、入試科目が少ない大多数の大学では、必修は英語だけ、とか、英語以外は選択科目、どころか、外国語はすべて選択科目、というところもあり、外国語を2つ必修でがっつり学ぶ大学は数としては少数になってきているように思います。

 数年前、東大はトライリンガル・プログラム(TLP)という外国語のエリート教育を始めました。二ヶ国語学習という大枠は実は変わっていませんが、根本的な発想を転換させ、日本語もグローバル環境の中では英語や中国語と同じ一つの言語だと考え、トライリンガル(三ヶ国語)と読み替えたわけです。

 大多数を占める日本人学生であっても、日本語を使って4年にわたって教養を蓄えていくということは、実は、さらに高度な日本語力を4年間のコースワークの中で身につけていくことだとも言えるでしょう。また、外国語力もただ単なる道具的なスキルとして身につけただけでは、東大生としては悲しい、やはり、自分だけの思想や智慧、教養を兼ね備え、グローバルな環境の中で対話的に活躍できる人材を、東大としては育てたい、ということだろうと思います。

 エリート教育というのは、このプログラムを履修することができる学生を、英語の成績優秀者に絞った点です。具体的には、東大入試の英語で上位300位(上位一割)程度以上の成績を取った学生ということになります。このプログラム生は、入学時だけではなく、学期や年度の区切りごとに英語ともう一カ国語の成績がチェックされ、基準に達しないと、そこで修了資格を失い、脱落するというふうに設計されています。入学して最初の学期の外国語の履修コマ数は特に多く、なかなか厳しいと思いますが、だからこそ、1年半のTLPを修了した学生は、教員としての私から見ても、たいしたものだと思います。

 中国語を英語以外の外国語として選択してTLPの履修を許可された学生は、毎年約3000名の新入生のうちの60名程度です。一般の中国語のクラスは30名規模なのですが、TLPクラスは、1クラスを20名に限定して3クラス(文系2理系1)展開しています。今年度私はその中の文系の1クラスを担当しました。元来選抜されてきている学生だからでしょう、向学心が高く、積極的な発言や質問も多く、また、少人数ということで非常に濃厚な授業運営が可能でした。欠席が目立つ学生も、私語がうるさい学生もわずかながらいましたが、全体として楽しく教えることができました。

 授業内容は、中国語文法と基本的な語法の習得です。Sセメスター(春夏学期)は、週2コマ(1コマ105分13週)をもうひとりの先生とリレー式で行い、Aセメスター(秋冬学期)は、週1コマを私だけで行いました。

 単純計算で、約4000時間をかけて、B5版で200ページ近くある分厚い教科書をほぼすべてやりきりました。余った時間は、2年生になって役に立つようなことと考えて、ディクテーションと映画鑑賞を行いました。ディクテーションは、普段の授業ではあまり時間が取れなかったのですが、やはり、中国語を聞き取れた時の喜びは格別なので、ディクテーションはもっと時間をかけたいと思っていました。映画は中国語字幕のものを見せるつもりだったのが、機器の扱いに失敗して、英語字幕になってしまったのは反省材料です。

 映画は、「ションヤンの酒家」という邦題で公開されたことのある《生活秀》という映画で、重慶を舞台にしていながら(原作小説は武漢)、役者の中国語が、標準的な発音でかつ比較的ゆっくり話されているので、教材に適していると、過去にも教材として使ったことのあるものです。描かれているのは、もう20年ほど前の中国社会の一面ですが、現在の中国社会の理解に資する描写も随所に挟まれています。

  とにかく、今年度私が教えた20名が、4月から2年生になったあとも、日英中の語学スキルを順調にレベルアップさせ、3年後に頼もしい教養人として巣立っていくことを祈るのみです。

 今年度後期TLP(3,4年生=後期課程生向けTLP)を修了した学生は一人だけでしたが、彼女は前期課程でもTLPを修了した学生でした。私が引率した北京社会文化研修でいっしょに活動しましたが、癖のない中国語で、現地の中国人とスラスラと内容のある話をしていましたが、実は、カナダに1年間留学しただけあって、中国語よりも英語の方が得意なのだとか。20名のうち何名がこんな学生になってくれるのか、楽しみでもあり心配でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北京社会文化研修2019(東大LAP=リベラル・アーツ・プログラム)

 2019年9月8日から15日まで、学生8名を連れて1週間の海外研修(北京)を行いました。

しかし、ただの海外研修ではありません。

 重要なポイントは2つあります。

(1)日本語を使わず中国語で1週間を過ごす。

なので、かなり中国語スキルがないと困ります。応募者9名すべてに応募書類の提出と面接を課し、面接では、上級レベルの中国語(HSKの最高級6級)があるかをチェックしました。ただし、HSK5級レベルであっても、モチベーションが高ければ、飛躍的にレベルアップすることも期待して、合格としました。

(2)大学の枠を飛び出して、北京社会の社会組織文化組織の中に飛び込む。

単なる語学研修ではなく、北京社会で現実に活動している組織に赴いて、質疑応答などを通して交流をはかるプログラムです。社交的なスキルを身につけるだけではなく、中国北京社会に対する風通しの良い理解を得、刮目すべき人格に触れ、中国の社会と文化に対する経験値を一気に高めたいと考えています。

 

以下のような日程で活動を行いました。

9月8日(日)日本出発・北京到着 自由行動 歓迎会(京劇の往年の名優同席)

9月9日(月)Panasonic博物館(松下幸之助記念館)北京大学芸術学院 学生発表会、座談会、昆曲講義(講師:蔡正仁、張静嫻)

9月10日(火)人民中国雑誌社(王衆一編集長)中華文化学院(社会主義学院)

9月11日(水)中国人民大学文学院・歓迎式 映画論入門(講師:陳濤) 国家博物館見学

9月12日(木)人民大学講義聴講(中国古代作家研究、西洋古典文芸理論)学生交流

9月13日(金)(旧暦8月15日、中秋節)石景山区・法海寺壁画参観 北京歴史文化講座

京西五里坨民俗陳列館、月餅作成体験 書道講座 中秋晩宴(屋外で京劇観劇)

9月14日(土)文化・アートを中心とした複合的文化商業施設 講座(紅楼夢人物談)

中国世界平和基金会訪問 華道講座 中秋晩会(詩の朗読、京劇歌唱、伝統楽器演奏等)

9月15日(日)自由行動 北京出発・日本帰国

 

 1週間。研修期間として、短いとも言えるし、長いとも言えます。中国語のスキルをはっきりと伸ばすためには全然時間が足りませんが、北京社会をちょっと体験するだけなら十分すぎるくらいの時間と言えます。1週間という期間がなかなか絶妙だったと思います。

 東大の学生と中国人民大学文学院の学生との間の交流もこの研修の重要な一コマですが、他の多くの国際研修と大きく異なるこの研修の特徴は、やはり、大学を離れ、北京社会の中の様々な社会組織の中に飛び込んで行き、東大で学んだ中国語を使って交流するという点にあると言えましょう(「人民中国」社では日本語での交流となりましたが)。中国語スキルが十分でない参加者は冷や汗をかいたことでしょうが、かといって、そのために言葉に詰まって交流が成り立たなくなるということはなく、全員が粘り強くその場その場の交流を成立させました。8人の参加者の間の空気も傍目で見た限りでは和気あいあいといった感じで、引率者としては嬉しい限りでした。

 私たちは、研修三日目の9月10日(火)の午後、北京の中心部の建国門外にある国能中電(国能中電能源集団有限責任公司)という、環境保護活動をビジネスにしている巨大な営利企業を訪れました。(http://www.cpcepgroup.com/index.php?siteid=1)。中国で非常によく知られた青年実業家である白雲峰董事長兼CEOとその他数名の社員が、瀟洒な本社の建物の一室に私たちを出迎えてくれました。交流会が終わった後の夕食会で、私の隣に座った会社ナンバー2の技術畑の方(名刺がもらえず、名前を失念)が、私はあまり日本人と付き合ったことがないが、と断ったうえで、日本人は中国人と同じ東洋人なので「人情」がわかっている、と話しかけてくれました。

 どういうことかと言えば、以前アメリカのスタンフォード大学の学生たちが私たちと同じように訪問した際、スタンフォード大の学生たちは、会社の広報ビデオを見て、国能中電を批判するばかりで、結局ずっとスタッフと学生たちの間で喧嘩腰の論争になってしまったとのことでした。そんなスタンフォード大生は「人情」を理解しないのに対し、東大生は「人情」がわかる、ということなのです。非常に友好的に、ある意味褒めてもらったので、私はそのまま受け取ったのですが、このあたりにはいろいろ考えるべきこと、反省すべきことがあるように私は思いました。

 参加者の一人がそのビデオを見たあとで、中国の環境汚染について、自分が観たことのある西洋のあるメディアが作成したビデオとは、だいぶ伝えている内容が違う、と言ったところ、それまで非常に落ち着いた態度でテキパキと周到でエッジの効いた説明を私たちにしていた白雲峰董事長が、突然色を正して、「それは中国の醜悪化(“醜化中国”)」だと鋭い声を発しました。それでその参加者は疑問の追及を控え彼の言葉に慎重に耳を傾けることにしました。この態度は非常に良かったと思います。ただ、明らかに、このあたりにはセンシティブ(“敏感”)な問題が隠されており、その背後には、国際的で社会的かつ文化的な大問題が横たわっていることを感じさせました。私たち東大訪問団はこの場面に限らず、概ね、センシティブな問題になるべく触れないよう立ち回ったと言えるかもしれません。それを、会社ナンバー2の技術畑の方は、「人情がある」ということばでやさしく包んでくれたのではないでしょうか。そういう“人情”は昨今多用されるようになった「忖度」という日本語と通じるところがあります。

 “人情”を理解することも「忖度」することも、本来決して悪いことではありません。人の話に耳を傾け、人の気持に寄り添うことは、現代人にとって、むしろ必要な美徳とさえ言ってよいと思います。彼の言葉は言葉通り受け取っておきたいと私は考えるものです。しかし、もしかしたら、彼も、私たち東大訪問団との交流には、ある種の物足りなさを感じたのかもしれません。それをやんわりとああやって伝えてくれただけなのかもしれません。

 たった1週間の研修で最大限の収穫を得るために、当初、参加者には、それぞれの課題設定を要求しました。そのうえで、しかし、それに縛られずに、見聞きする北京の現状を、曇りのない眼で、柔らかく鋭い耳で、ありのまま、そのとおりに、受け取るようにしてほしいと伝えました。そのことは今でもまちがった指示だったとは思っていません。ただ、あくまでも団長としての私の自己批判として言うのですが、その場の空気を壊すことを恐れて、本当の相互理解に達するために必要な思い切りの良い踏み込みが、若干足りなかったように思います。それは勇気や大胆さだけの話ではなく、信頼関係を損なわないための、様々な語彙、表現技術、作法とセットの話です。信頼関係を壊してしまったら相互理解など土台無理な話なのですから。

 参加者にとって、今年の研修が記憶に残る極めて有意義な体験になったであろうことは、彼らが研修後に寄せてくれた文章を読むと、全く疑いようがありません。参加者は、もし機会と余裕があったら、これからでも、2019年9月の北京での見聞や出会った方々のことを思い起こして、インターネットで調査したり、書籍を読んだりして、自らの経験を立体的にそして広がりのあるものとして、再確認していってほしいと思います。東京大学・教養教育高度化機構(国際連携部門)に属するLAP(リベラル・アーツ・プログラム)としても、今後の活動に、今年度の北京社会文化研修の経験を是非活かしていきたいと思います。

 

 

 

 

武田泰淳の戦前戦中(大学院/2019年度秋冬:Aセメスター)

 武田泰淳(1912−1976)は日本文学史上戦後派の作家として知られています。戦後派の作家として彼がユニークなのは、彼の知的背景に中国文学が根深く入り込んでいることです。日中文学交流史上、彼ほど深く近現代中国文学を理解した作家はいません。自分の作品に中国文学の痕跡をあれほど深く広く残している日本の作家もいません。

 彼はどうやって作家として出発したのでしょうか? また。彼にとっての中国文学、あるいは中国とはどのような意味を持っていたのでしょうか?

 「記憶の澱」というドキュメンタリー番組(山口放送・佐々木聰制作/語り:樹木希林/55分)があります。この1時間程度の番組がすごい。見ていない人は是非見て欲しいと思います。(ただし神経の細い人には見るのがつらいかもしれません)。初放映は2017年12月3日ですが、私は確か2018年の8月頃のBSの再放送で見ました。

  終戦直後の満州で共同体を守るために自分の体を犠牲に供した亡姉を思い返してハラハラと泣く老女の姿、命令を受けて戦車にほぼ素手で向かい次々と死んでいった戦友たちのことをふり絞るようにして話す老人の慟哭、また、虐待されながらも必死になって抱いていた赤ん坊を谷底に投げ捨てられた中国の若い母親が自らも谷底に身を投げるのを只見過ごすだけだったとボソボソと話す元日本軍兵士の話・・・

 それらに、私は心の奥底が揺さぶられました。武田泰淳が作家として出発したのは多くの人々がそんな状況に置かれていたころでした。武田泰淳は1937年盧溝橋事変が起こってすぐ一兵卒として華中に送られ2年後除隊、武田の長編評伝を書いた川西政明はその時に作家武田泰淳は生まれた、というようなことさえ言っています。果たして彼はその間をどう生き、何をどのように書いたのか?

 彼の思索や文体をちゃんとたどろうとするのなら、彼の書いたものをすべて、執筆順に読んでしていくのがよいのですが、105分×13回の授業期間で一応まとまったイメージを残す演習にしたかったので、ある程度精読の対象は絞りました。そのため重要なテクストのいくつかを割愛せざるを得ませんでした。以下は授業で精読したそのテクストのリストです。(*は後年に書かれたものだが、当時のことに触れているもの)

 

1935年

ユーモア雑誌『論語』について(「斯文」1月)

鐘敬文(「中国文学月報」第2号、4月)

新漢学論(「中国文学月報」9号、11月)

*謝氷螢事件(「中国文学」101号、1947年11月)

1936年

河北省実験区『定県』の文化(「中国文学月報」12号、3月)

疑古派か?社会史派か?(同16号、12月)               

1937年

昭和十一年における中国文壇の展望(「支那」1月)「鉄拐の顔」(「同仁」6月)

清末の風刺文学について(「同仁」1月)

影を売った男(『大魯迅全集』(改造社)月報2、3月)

竹内好魯迅』跋(1944年12月)

*L恐怖症(「L恐怖症患者の独白」)(「近代文学」9-10合併号)

袁中郎論(「中国文学月報」28号、7月)        

1938年

同人消息(「戦線の武田泰淳君より―増田渉宛」)(同41号、8月)        

土民の顔(同44号、11月)

戦地より(「文芸」11月)                

1940年

支那文化に関する手紙(「中国文学月報」58号、1月)

杭州の春のこと(「中国文学月報」59号、2月)

支那で考へたこと(「中国文学」第64号、8月)    

1941年

E女士の柳―米国留学中の胡適(「中国文学」68、1月)

梅蘭芳遊美記の馬鹿馬鹿しきこと(「中国文学」69号、2月)

小田嶽夫魯迅伝」(書評)(「中国文学」73号、6月) 

会へ行く路(「中国文学」75号、8月)                     

1942年

佐藤春夫支那雑記」(書評)(「中国文学」80号、1月)

玉[王黄]伝(「中国文学」81号、2月)        

座談会「大東亜文化建設の方図」(「揚子江」第5巻12号、12月)            

司馬遷』初版「自序」「後記」「結語」

司馬遷の精神―記録についてー(『新時代』、1946年6月)

1943年  

閃[金楽](「中国文学」終刊号、3月)           

中国と日本文芸(「文芸」7月号)

中国人と日本文芸(「国際文化」9月)

中国作家諸氏に(「新潮」10月)           

1944年

朱舜水の庭(「批評」I、11月)

 

 レポーターには以下の三項目を要求しました。

(1)各自担当部分の初出テクストをコピーあるいは撮影して、そのPDFファイルを、1週間前までに受講者全員に送信

(2)担当部分の書誌情報、内容紹介(要旨)、固有名詞等事項調査報告、コメントをまとめたレジュメを作成、前日までに受講者全員に送信

(3)レジュメの内容を1時間程度で口頭発表、終了後の質疑に応答

 レポーターは全部で8名、受講生は10名程度でした。レポーターの一人は、1年短期の留学生で日本語に自信がなかったため、中国語で発表してもらいました。

 期末レポートは、授業・調査中の小さな「発見」を小論文にしたものを提出してもらいました。「発見」がなければ面白くありません。まずは、自分の発見、驚き、感心を自分でちゃんと認識することが必要で、それを資料やエビデンスに基づいて一つのストーリー(物語)にまとめることです。論とは一つの物語ですから。ただしそれを確実な資料に基づいて構成するということが必要不可欠です。期末レポートはこれらが達成できていれば合格です。その「発見」が本当の発見、つまり、誰もこれまで指摘していなかったことで、しかも、様々な問題につながっていくような発展性、奥行きを持つものだったら、膨らませて、学術論文として公開できるようになります。

 

 

 

 

 

『周作人研究通信』目次、PDFファイルダウンロード

 『周作人研究通信』は、2014年6月に創刊した研究者向けの専門的電子ジャーナルです。2013年に出版した『周作人と日中文化史』(勉誠出版)の執筆者合評会を母体にして周作人研究会を立ち上げ、およそ半年に1号のペースで刊行して来ました。

 周作人は、1885年に中国浙江省紹興に生まれた中国の作家・文明評論家で、大きな影響力を持っていました。日本の文化と社会に精通し、日本の文芸作品を中国にたくさん翻訳・紹介しました。日本の傀儡政権の要職に就いたため戦後「漢奸」として下獄しましたが、密かにその文章を慕う中国人は今も少なからずいるようです。

 以下のリンクから『周作人研究通信』のPDFファイルがダウンロードできます。

 

第1号

    伊藤徳也 周作人の文弱性    ・・・・・・・・・     1

    小川利康 クプカの謎          ・・・・・・・・・   6  

    西村正男 東洋文庫中華民国国民政府(汪政権)駐日

      大使館档案」所収の周作人書信について  ・・10

    伊藤徳也 辜鴻銘における“art”       ・・・・・・・  12

第2号

 伊藤徳也 「頽廃派」と「生への意志」の関係」  ・ ・ 1

    小川利康 周作人散文小詩に関する書誌的なメモ     ・・10

    朱芸綺  周作人に批判された曹慕管の文章について」  15

    伊藤徳也 《新文學的二大潮流》は如何に書かれ

      如何に発表されたか              ・・・・・19

 木山英雄  埋め草:「阿部淑子」一件  ・・・・・・・ 22

第3号

 吴红华   周作人、钱稻孙和九州学者                       ・ ・・ 1   

 李雅娟   “自然先生” 与“自然太太”    ・・・・・・ ・ 14  

 木山英雄  [資料紹介 ] 林芙美子遺品中 の周作人書簡 ・ ・ 17  

 伊藤徳也  【書評】S. Daruvala, Zhou zuoren and an       

                Alternative Chinese Response to Modernity  25  

 呉紅華   【学会記事】清末民国期の来日中人留学生と

       現代文学日中術研究集会 」   ・ ・ ・・ ・ ・ 33

第4号

    小川利康  周作人における「頽廃派」――厨川白村

       ボードレールとの関わりから       ・・・・1

    秋吉收  「随感録三十八」は誰の文章か ーー 

      ル・ボン学説への言及に注目して      ・・・・・10

    胡楠   北大国文講壇上的周作人(1917-1925)   ・・・ 25

第5号

 顾伟良    周作人研究与历史文献的阐释兼论《周作人年谱》

        中的日记纂改                     ・・・・1  

   伊藤徳也 竹内好の周作人論              ・・・・・・・・・・16  

 徐晓红     “苦茶庵”与“无相庵”――论施蛰存所受

      周作人的影响                 ・・・・・・21  

 久保卓哉 【資料紹介】弘一法師の内山完造宛書簡三通及び

      『華厳経疏論纂要』に挟まれた弘一法師文書一通 27   

第6号 <特集:周作人死去50 周年>  

 北岡正子  初めて周作人を読んだ頃     ・・・・・・・・・・ 1  

 池上貞子  尾坂徳司先生と周作人      ・・・・・・・・・・ 5

 飯塚容   「新しき村」と父の思い出     ・・・・・・・・・ 7  

 伊藤徳也  周作人「礼の必要」について(付日本語訳)    ・ 11  

 李雅娟   戏仿“赋得”体的“言志”派文学宣言―重读《金鱼》13

 伊藤徳也 【資料紹介】尾坂徳司『かえり見すれば』の中の

      周作人と日中学院          ・・・・・・16

 坂元ひろ子 漫画の中の周作人     ・ ・・・・・・・・19

 伊藤德也 【講演記録】談談“生活的藝術”的思想基礎      ・38   

第7号

 吴红华  周作人与玩具    ・・・・・・・・・・・・・・ 1    

 伊藤徳也 周作人《浄観》の中に現れた文化論の三つの位相

                     ――[付]「浄観」日本語訳――                ・・・14

   徐晓红  1934 年周作人的访日考释――以与同仁会的

      往来为线索                 ・・・・18   

   伊藤徳也    「エモ」い趣 ―周作人研究横向備忘録(1)     ・31

   伊藤德也     微型小説あるいはSF としての《夏夜夢》                

                      ―周作人研究横向備忘録(2)―                  ・・35    

  [付録]北斗生「支那文壇無駄話」          ・・・・・・・・・40

第8号  

 伊藤徳也  「西山小品」の諸問題―日中近代文学史における  1   

 伊藤徳也  魯迅《野草》のタイトル命名の心境  

      ―秋吉收『魯迅 野草と雑草』に触れて・・・・・ 13 

第9号

 顾伟良  反时代的考察:一场被忘却了的小诗运动的夭折(上)

                      从写生文、《古诗今译》等谈周作人的散文精神 ・ 1

 伊藤徳也 【講義録】「生活の芸術」論序説       ・・・17

 徐晓红    比昂松的《父》重译现象初探

      —以周作人的《翻译与批评》为线索   ・・ ・29

 伊藤德也 【译载]周作人的中国文学史论与“儒家”  

                     ―回应尾崎文昭先生对于拙著的批判ー   ・ ・・41    

第10号

 伊藤徳也 周作人に於ける“人情物理”(“物理人情”)

        ーーその用例に対する分析   ・・・・・・・・1

 王雨舟  周作人《金鱼》与左联成立关联之管见   ・・・13

 伊藤徳也 【書評】中島長文訳注『周作人読書筆記』   ・・・17

 伊藤德也 【译载】周作人的文弱性          ・・・22    

 

第11号

 伊藤徳也  周作人に於ける“人情物理”(“物理人情”)其二
         ー『徒然草』翻訳、魯迅への諷刺、「知堂」命名ー・・ 1

 S.Daruvala   My research on Zhou Zuoren            ・・・・・・ 16
 伊藤徳也  [紹介]周豊二氏からの書簡ー「若子の死の周辺」補遺  ・・27
 郭偉      [書評]九州大学中国文学会編『目加田誠「北平日記」
           1930年代北京の学術交流』        ・・・・・・・32

 伊藤徳也    [書評]小川利康『叛徒と隠士 周作人の一九二〇年代』
           補足       ・・・・・・・・・・・・・・・・36

            編集後記  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40


  

東大駒場カルチャーレポート2018(3)同時進行の文化現象とのシンクロ

 学生レポートの一部にも反映されているが、2018年度に同時進行していたいくつかの社会的文化現象やTV番組等と授業がシンクロすることがあって興味深かった。最も大きかったのは、映画「ボヘミアン・ラプソディ」のヒットとこの作品をめぐる評論だったように思う。

 私が気がついて、受講生全員にその朝すぐ回覧した「映画館でクイーン まるでライブ 「ボヘミアン・ラプソディ」広がる客層 劇中の大観衆と一体化」(『朝日新聞』朝刊2018年11月27日「文化・文芸」欄/署名:宮本茂頼)という記事がその代表で、以下のような一節などには、受講生の中からも反響があった。

 

配信大手ネットフリックスが製作した映画がベネチア国際映画祭で最高賞を取るなど、物語性の高い作品がパソコンなど個人的な視聴に流れている。一方で映画館での鑑賞は、映像・音響技術の向上をいかして、ライブ会場のような体感が求められる傾向がある。

 

 個人的物語性とライブ的体感性の対立ということだが、そのいずれもが、確かに今それぞれに訴求力を持っているということは、受講生のほぼ全員に共有された認識だったように思う。

 (1)の報告では物語の「統辞」構造を分析していたし、(2)のミュージカル映画に関する報告は、(4)の舞台のミュージカルとの対比もあったので、「ボヘミアン・ラプソディ」の体感型ヒットは様々なことを感じさせ、また、考えさせもしたように思われる。

 (4)で触れられた浅利慶太は2018年7月13日に死去、BS朝日(2018年12月24日21:00〜22:54)で「劇団四季&演出家・浅利慶太~日本の演劇に革命をもたらした男」が放映された。

 また、(3)の報告が終わったあとだが、NHK総合ドラマ10(毎週金曜22:00〜22:44)で、スーパー戦隊オタク女性が主人公のTVドラマ(全7回)が1月18日から放映された。年末年始に番組予告を見て「おっ」と思った私は、授業の最終回(1月8日)に(3)の報告者に聞いてみたら、すでに承知済みのことだった。(私の予想に反して)このドラマは好評を博し、ストーリー展開や劇中戦隊の作り込みなどで注目された。

 今年は中国人留学生が一人だけだったが、その授業での報告(5)は、明らかに、他の日本人受講生の予見を良い意味で裏切って、新しい中国認識をもたらしたように見受けられた。

 レポート全文

東大駒場カルチャーレポート2018(2)昨年度との違い

 さて、東大生に自分の文化体験を発表してもらう授業だが、今年度の授業と昨年度とを比べると、大きな違いがいくつかあった。

 

①受講者数:昨年度11名 ⇒ 今年度5名

②受講者分布:昨年度〜本郷の諸学科の内定生(2年生)が多く、大学院生もいた。

  ⇒ 今年度〜駒場の教養学科の学生(3年生)が多く、大学院生不在。

③今年度は、各自の発表の前に、過去のレポートを読んで意見を交わす期間を置いた。

④今年度は、各自の発表が、ほぼレポート状の文章として事前に提出された。

⑤両親や肉親の存在感:昨年度は大きかった ⇒ 今年度は不明

 

 ④のようになったのは、おそらく③のような期間を置いたからであろう。そして③のような期間を置いたのは、①のような受講者数だったためである。⑤が今回はっきりしなかったのも①が原因だろう。

 つまり①の受講者数が今年度と昨年度との大きな違いを生んだと言える。それは、シラバスの説明文が引き起こした結果かもしれない。

 昨年度は自己の文化体験の歴史化ということをテーマにしたが、今年は、歴史化ということを前面には出さず、互いの体験の比較、ということを前面に出した。

 昨年度の歴史化というテーマのほうが相対的に多くの学生を引きつけたようである。

 

 今回歴史化ということを前面に出さなかったのは、この授業が、専門的に研究を深めるための授業として構想されていなかったからである。

 昨年度の授業で明らかになったのだが、各自の文化体験を歴史化しようとすると、どうしても、専門的な探究が不可欠になる。受講生は自身の体験を歴史化するだけの専門的スキルを(まだ)持っているわけではないし、十分な時間をかけて調査する準備も態勢も整っていない。もちろん、社会学内定生などはそれがある程度可能だったかもしれないし、結果として、昨年度の受講生のうち何人かは、驚くべき緻密さと詳細さでもって自身の文化体験の背景や文脈を探究し、重厚なレポートを寄稿してくれた。

 しかし、受講生の体験内容は様々な分野・領域に広く渡り、開講責任がある私には、残念ながら、それらをカバーし適切に指導できるだけの幅広い知識や十分なスキルがなかった。

 となると、体験談が中途半端な調査レポート、あるいは生煮えで説得力のない分析に近づいてしまい、せっかくの魅力的な体験談が色あせてしまいかねなかった。

 今年度はそれを避けて、取替不能な、言わばかけがえのない一人ひとりの生の体験談を交わす機会にしたいと考えたのである。

 

 しかし、今回のレポート集を読めば分かる通り、受講生たちは、結局のところ、自身の文化体験を歴史化し分析することへの魅力を捨てきれなかったようである。

 あいかわらず、体験談としての魅力は大いに発揮されているが、レポートの中で示された分析や見解、歴史的概観については、今後専門的に検証される必要がある。そのことを受講生は十分自覚し、それらを個人的な仮説として今後も継続して検証していってくれるよう願っている。

 

 そのような専門レベル未満の調査や分析を、大学の教育課程の中でどのように位置づけたらよいのか。授業開講責任者としての私に残された課題はなかなかに難しいものがある。 

 今後私に必要なのは、問題解決型の報告をしようとする学生に釘を差し、問題発見型の報告にまとめるよう、粘り強く求めるということくらいだろうか。

 いずれにせよ、学生は体験談を語ることによって、自身の文化的背景(の少なくとも一部)を相対化し客観視することができるとは言えるだろう。

 それは、今後、研究主体として、あるいは、社会構成メンバーとして自己実現していく受講生にとって、十分意味のある象徴的なもの(直接特定の何かに役立つのではない「教養」)として、彼らの内に残っていくのではないだろうか。それを私は期待している。

 レポート全文

東大駒場カルチャーレポート2018(1)概観

 今年度も昨年度に引き続き、東京大学教養学部後期課程(3,4年生)の「比較文化論」で学生の文化体験を発表してもらう授業を行った。

 とにかく、学生諸君の体験談を聞くのは楽しいし、もっと多くの学外の人に知ってもらってもよいと思う。

 彼らが書いたレポートを読むと、少なくとも現在の若者の文化状況の一端とその傾向がわかって非常におもしろい。今年度のレポート全文はこちら。

 レポートの内容は、

 

(1)テレビドラマ

(2)ミュージカル映画(製作)

(3)スーパー戦隊シリーズ

(4)劇団四季ミュージカル

(5)中国でのジャニーズファン

 

である。この中で、(2)は、多くの協力者を巻き込んだ映画製作体験が中心で、当然、製作の前には、非常に多くの作品を視聴し分析しているのだが、集団製作の体験発表というのは、今まで(2009年度、11年度、17年度)になかったタイプの発表であった。

 SNSなどのヴァーチャル空間での人的交流は、(5)もそうだが、これまでも何人かによって報告されてきたが、(2)のような生身の人間同士のface to face の交流を基礎にした体験の報告というのは新鮮だった。頼もしい限りである。

 と言っても、ヴァーチャル空間での人的交流がつまらないということでは全然ない。私も含めて、生身の人間同士のface to face の交流が苦手という人間は必ずどこにもいて、そういう人間は、利用できるものは何でも利用して、グッとくる生きがいをしっかりとつかんで、自らの生を、社会的な環境の中で享受していけばいい。そうした自分の体験は、あとでさらに捉え返すことによって、濃密な体験として意味づけていくことも可能なはず。

東大駒場カルチャーレポート2017 受講生の報告内容概観

 

さて、六年前の2011年度の同様の授業で印象に残ったのは次の三点である。

 一、学生が専門を選ぶ際にサブカルチャーが果たす作用

 二、「女オタク」あるいは「腐女子」の耽溺(頽廃)の諸形式とその心理

 三、SNSの利便性とその効力

一については、2011年度は、歴史をやりたいという学生が9名中3名おり、その多くが、歴史ものの電子ゲームに熱中したことがあった。

二については、本人が自称「女オタク」の女子学生と「腐女子」についてレポートをまとめた男子学生がおり、当時はその内容に驚くばかりで、杉浦美和子『腐女子化する世界ー東池袋のオタク女子たち』(中公新書ラクレ、2006年)等を読んで一応わかったつもりにはなったが、今思うと、当時の私は、BL(ボーイズラブ)に耽溺する「腐女子」の心理などまったく理解できていなかった。(今や私は中高年になり娘達が十代後半になって、異性を冷静に眺められるようになり、さまざまな証言や論説を聞いたり読んだりして、6年前と比べて理解は進んだと思う。)

三は、特に、それまでになかったツイッターの絶大な力と効果が紹介され、大いに刮目した。

 以上三点は、率直に言って大いに驚かされたし、毎週の授業が楽しみで仕方がなかった。その時提出された期末レポートも、大変興味深く、中身のあるものばかりで、当時も冊子のようなものをまとめたらおもしろいのではないかと思った。

 ただ、中には、プライバシーに関わることに敏感な学生もいたし、レポートの中身には、かなり際どい叙述もあって、公刊したいという衝動は抑えざるを得なかった。しかし、機会があれば再度このような授業をやってみたいと考えるようになった。

 その後、コースの再編があって、「現代文化構造論基礎」を担当することはなくなってしまったのだが、このような演習をすることによって、受講生の間で様々な比較をすることになるのだし、それがやがては堂々とした「比較文化論」として結実する可能性はある。そのうちに「比較文化論」で同様の授業を開講してもよいのではないかと思うようになり、今回の開講となった。

 さて、六年前の授業から窺えた上述の三点については、実は、今年度の受講生の発表(とレポート)からも窺えた。特に顕著だったのは、本冊子のレポート集を読んだら歴然とするが、三のSNSの力である。学生の中でのツイッターの存在感は六年前より格段に増大したように見える。一と二は本書に掲載したレポートだけからではあまり明確には伝わらないかもしれないが、授業や課外交流会でははっきりと見て取れた。

 SNSに必ずしも親しんでいない私にとっては、ツイッターで知り合った見ず知らずの他人と会うのは、非常に危険であるように思われた。相手が恐ろしい悪意を持っていないとも限らないからである。実際、SNSを利用した信じられないような凶悪な犯罪が起こっている。

 むろん、SNSを介在させない、普通の旅行などでも、おぞましい犯罪の被害者になる可能性はいくらでもあるのだが、SNSによって、趣味の同好者と知り合う千載一遇のチャンスとともに、悪意を持った恐ろしい他者から危害を加えられる危険性も、同時に一気に拡大したように思える。今後、SNSを利用した活動は、そうしたリスクを十分踏まえたうえで行ってほしいと思う。

 あと、これまで印象に残らなかったことで、今回印象に残ったのは、受講生の両親(や肉親)の存在感である。私などは、学生時代(35年以上前になるが)、自分の親のことを人前で話すのは非常に抵抗があった。それはとても恥ずかしいという感覚だった。親のことを肯定的に話すのは、まるで自分は自立できていないこどもであることを自ら認めることのような行為だった。

 ところが、今年度の受講生の発表では、しばしば、自分の文化的体験において、父母からの影響や推薦・勧誘があったことがごく自然に披露された。この間には、日本社会における家族内の親子関係の変質という事態がありそうである。

 とは言え、おそらくそれだけではない。親の世代自身がーーちょうど私は彼らの親の世代に当たるのだがーーサブカルチャー体験を豊富に持つようになっただけではなく、堂々とその種の体験を恥じることなく語るようになった、という変化があるように思う。

 サンリオのキティに対する私の感覚が、無関心あるい拒絶(大人の女性がそのグッズを持っているのは「少女(子ども)」っぽいと違和感)から許容(持っていても自然)へと劇的に変わったのは、40歳に差しかかろうとする2000年頃で、そのころには、世間的にも、サンリオショップが渋谷駅構内にあったり、海外でも知られるようになっていた(2001-02年に大ボストンでよく見かけた)ように思う。

 今回新しかったのはあと一つ。留学生の存在である。元来中国の学生の感覚や志向、文化的な活動には関心を持っていたのだが、授業のような場で、あまり詳しい話は聞いたことがなかったし、日本で生まれ育った学生と留学生の間で、どのようなやり取りがなされ、どのような交流が発生するのか、大いに興味があった。

 その意味では、授業でのやり取りや、あるいはレポートを読んだ上での応答や反応も記載できればよかったのだが、上述のように、受講生の発表がとにかく面白かったので、その面白さの公表をただただ優先させた。私の「腐女子」心理に対する理解が深まったように、日本の大学生の海外(今年度の場合三人共中国語圏)の大学生ーー厳密には大学院生にあたるがーーに対する理解も、その逆も、もっと深められる余地はあっただろう。が、現時点では、残念ながら、それは今後の課題として持ち越すしか無い。

 東大の学生と中国の学生との交流ならば、LAP(リベラル・アーツ・プログラム)による南京大学との学生交流が3月と11月に行われている。

 3月は東大の学生が南京に行って、11月は南京大学の学生が東京へ来て、当地で混成チームを組み、短期のフィールドワークを行っている(3月の南京では1週間、11月の東京では数日間)。この学生交流には、ゼンショーからの寄付金等と、スタッフによるかなりの手間がかけられているが、それに近い効果を、今回のような授業の中でもあげたいものだと思う。

 もちろん、今回の授業のような交流の形態は、かなり限定された特殊なあり方である。海外の学生と言っても、三人とも日本に対する知識をあらかじめかなり備えていて、わざわざ日本へ留学に来ている日本語のできる学生ばかりである。

 発表やレポートに表面化していない留学生の文化的社会的バックグラウンドを、もっと効果的に受講生全員で共有することができたなら、もっとおもしろい「化学変化」が起こり、もっと「比較文化論」らしい有意義な成果になったかもしれない。

 

レポート本文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0

東大駒場カルチャーレポート2017 授業開講の動機

 

 1962年に生まれ、60年代から70年代の特撮作品やアニメ、マンガにどっぷり浸かって子供時代を過ごした私は、大学で教え、子の親になっても、当時の作品群に対して、言いようのない感覚を持っていた。そのことを鮮明に意識させられたのは、初め1993年にNHK総合で放映された「私が愛したウルトラセブン」(市川森一)というドラマをたまたま見た時だった。

 このドラマは冒頭に、60年代の「ウルトラセブン」の冒頭の部分をそのまま流していた。その本当に最初の映像を見、最初の音楽を聞いた時、私は体の奥底が震えるような感覚に襲われた。このあと「ウルトラセブン」を非常に高く評価する評を読んで、そうだったのかと思って、DVDをレンタルして何十年ぶりかに見た。すると、いろいろ粗が目について、さすがにがっかりした。しかし、冒頭の映像と音楽が引き起こす何かしびれるような感覚は、全く打ち消しようもなかった。

 私は「文学」と呼ばれるものを専門としているが、自分が本当に追究したいのは、こういう、個人の奥底に根を張る感覚的情緒的なものではないかという思いがある。むろん、激しくても薄っぺらでやがてすっかり忘れてしまう感動というものはあるし、地味で静かな感慨が長く深く続くということもある。いずれにせよ、そうやって体の中に根をはった感覚的情緒的なものをなおざりにしてはいけないという思いが私にはある。

 それは、たとえ悪しきものに見えても、力(言葉の力も含む)で一気に「矯正」すべきものではないとつねづね考えている。その意味で、私にとっての「文学」「文化」は、「政治」はもちろん「思想」や「倫理」、「論理」あるいは「社会」とも対立することがある。

 学生たちが熱中した様々な趣味や文化活動、文化体験は、たとえそれが、一時的なものであっても、独りよがりのものであっても、つまり、自閉的耽溺、デカダンス(頽廃的諸形式)であっても、振り返り、凝視し吟味する意味がある。個々人にとってそうだし、文化的社会的背景を共有していない他人にとっても、それは興味深いものではないだろうか。少なくとも受講生の多くはそう感じていたと思う。

 自分の体験を発表し他人の発表を聞き、互いに理解を深めることによって、自分の認識を広げることができ、自分の体験を相対化することができる。

 

レポート本文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0

 

 

東大駒場カルチャーレポート2017 授業開講まで 

 

以下、2017年度に「比較文化論」を開講するまでのことを少し。

 今から8年前の2009年度、東大教養学部・教養学科に比較日本文化論(通称「比日」)コースがあった時、今は現代思想コースの開講科目になっている「現代文化構造論基礎」を担当したことがあった。その後、比較日本文化論コースから故門脇俊介さんが哲学関連のコース(現現代思想コース)を分離独立させ、それが引き金となって、教養学部教養学科内のコースが再編成され、比較日本文化論コースはなくなって、比較文学比較芸術、現代思想、学際日本文化という新しいコースが生まれた(と少なくとも私は理解している)。

 私の理解では、元来「現代文化構造論基礎」という科目は、門脇さんが比日のコース主任(かカリキュラム改革チームの責任者だったか)の時新たに設置した科目で、哲学や思想研究の科目だった。だから今も現代思想コースの科目なのだが、その科目を「比日」時代に私は二度担当した。文学が専門とされている私が担当したのは、今から見ると不思議かもしれないが、おそらく当時、比日の哲学思想関係の先生が次々と病に倒れたことが影響していたのではないかと思う。このころ、門脇さんのあと、北川東子さん、岡部雄三さんが闘病生活の後亡くなっている。そういう時に、純粋文学だけではなく、思想や美学、歴史、社会等もやや中途半端に巻き込みながら近現代中国文学を研究している私が、その穴埋めをしたという形だったのだと思う。

 哲学的なことはもちろん思想研究の基礎も教えられない私は、苦肉の策で、「構造」や「基礎」をすっ飛ばして、「現代文化」にだけフォーカスして授業を行なった。一度目は、岩渕功一『トランスナショナル・ジャパン:アジアをつなぐポピュラー文化』(岩波書店、2001年)を輪読した。台湾や中国大陸で日本の流行文化がどのような社会背景のもとに、受容され、現地化されたかに論及していたからである。その時の期末レポートとして、ノベルゲームについてまとめた受講生がいた。それは、当時(2009年度)まったく私が知らなかった事象だったが、現代社会における「物語」を論じる上で、これは欠かせない重要な形式だと感じた。たいへん啓発を受けたので、そのあとも、研究室の行事でいっしょになるたびに、彼とはその手の新興カルチャーについて語り合った。(といっても、ほとんど私が彼の話を聞き、質問し、そして彼がその答えをボソボソと言う、というのが毎度のパターンだったが。)

 その後、二度目の科目担当になった時(2011年度)は、ノベルゲームなども「現代文化」の重要な一部だと認識していたし、幼いころに親しんだ(あるいは耽溺した)サブカルチャーも、個々人にとっては、基礎的な文化的バックグラウンドと言えるのではないかと思うようになっていたので、学生個々人にそれぞれのサブカルチャー体験を発表してもらう、という授業を思い切ってやってみたのである。

レポート全文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0

東大駒場カルチャーレポート2017 目次

目次は以下の通り。

 

  (1)高野とうふ  2.5次元俳優と観客―登竜門としての2.5次元

                               舞台の仕組み―        ・・・・・7

  (2)藤村明日香  インターネット空間におけるファン活動

     ~静画・文章以外に関する記述・分析・考察~   ・・45

  (3)S. K.        ボーカロイドブームについての報告

                  〜ブームの背景、発展の過程、関連現象について〜 100

  (4)藤田優    少女マンガの歴史とその分析 ・・・110

  (5)R. S.     趣味の変遷            ・・・・・118

  (6)團りな      自分の音楽体験の歴史化・相対化

     〜日本のヒップホップシーンの興隆に焦点を当てて〜 124

  (7)M. I.     SNSとファンコミュニティ   ・・・・・128

  (8)李俊儒 台湾における道教及び民間信仰の文化体験・138

  (9)劉江寧       今までの身近な日本文化の体験から

                   中国の発展を見る    ・142

  (10)オウウシュウ 視聴者から発信者へ 

          —字幕組と私の文化体験—            ・・・148

  (11)加藤駿    バラエティ番組の可能性~視聴者側・制作 

          側の双方向の新たな試み~    ・・・・・・155

 あとがき           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・173

 

 レポート全文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0

 

東大駒場カルチャーレポート2017

東京大学教養学部2017年度のAセメスター(秋冬学期)の「比較文化論」で、学生達に、自分の文化体験をプレゼンしてもらい、討議する授業を行なった。

1月末締切で提出してもらったレポートが力作ぞろいで、とてもおもしろい。

内輪だけで読むのは惜しいので、公開したい。

かなり容量があるので、一気に読むのはなかなかたいへんだが。

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0