東大駒場カルチャーレポート2017 授業開講の動機

 

 1962年に生まれ、60年代から70年代の特撮作品やアニメ、マンガにどっぷり浸かって子供時代を過ごした私は、大学で教え、子の親になっても、当時の作品群に対して、言いようのない感覚を持っていた。そのことを鮮明に意識させられたのは、初め1993年にNHK総合で放映された「私が愛したウルトラセブン」(市川森一)というドラマをたまたま見た時だった。

 このドラマは冒頭に、60年代の「ウルトラセブン」の冒頭の部分をそのまま流していた。その本当に最初の映像を見、最初の音楽を聞いた時、私は体の奥底が震えるような感覚に襲われた。このあと「ウルトラセブン」を非常に高く評価する評を読んで、そうだったのかと思って、DVDをレンタルして何十年ぶりかに見た。すると、いろいろ粗が目について、さすがにがっかりした。しかし、冒頭の映像と音楽が引き起こす何かしびれるような感覚は、全く打ち消しようもなかった。

 私は「文学」と呼ばれるものを専門としているが、自分が本当に追究したいのは、こういう、個人の奥底に根を張る感覚的情緒的なものではないかという思いがある。むろん、激しくても薄っぺらでやがてすっかり忘れてしまう感動というものはあるし、地味で静かな感慨が長く深く続くということもある。いずれにせよ、そうやって体の中に根をはった感覚的情緒的なものをなおざりにしてはいけないという思いが私にはある。

 それは、たとえ悪しきものに見えても、力(言葉の力も含む)で一気に「矯正」すべきものではないとつねづね考えている。その意味で、私にとっての「文学」「文化」は、「政治」はもちろん「思想」や「倫理」、「論理」あるいは「社会」とも対立することがある。

 学生たちが熱中した様々な趣味や文化活動、文化体験は、たとえそれが、一時的なものであっても、独りよがりのものであっても、つまり、自閉的耽溺、デカダンス(頽廃的諸形式)であっても、振り返り、凝視し吟味する意味がある。個々人にとってそうだし、文化的社会的背景を共有していない他人にとっても、それは興味深いものではないだろうか。少なくとも受講生の多くはそう感じていたと思う。

 自分の体験を発表し他人の発表を聞き、互いに理解を深めることによって、自分の認識を広げることができ、自分の体験を相対化することができる。

 

レポート本文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0