東大駒場カルチャーレポート2017 受講生の報告内容概観

 

さて、六年前の2011年度の同様の授業で印象に残ったのは次の三点である。

 一、学生が専門を選ぶ際にサブカルチャーが果たす作用

 二、「女オタク」あるいは「腐女子」の耽溺(頽廃)の諸形式とその心理

 三、SNSの利便性とその効力

一については、2011年度は、歴史をやりたいという学生が9名中3名おり、その多くが、歴史ものの電子ゲームに熱中したことがあった。

二については、本人が自称「女オタク」の女子学生と「腐女子」についてレポートをまとめた男子学生がおり、当時はその内容に驚くばかりで、杉浦美和子『腐女子化する世界ー東池袋のオタク女子たち』(中公新書ラクレ、2006年)等を読んで一応わかったつもりにはなったが、今思うと、当時の私は、BL(ボーイズラブ)に耽溺する「腐女子」の心理などまったく理解できていなかった。(今や私は中高年になり娘達が十代後半になって、異性を冷静に眺められるようになり、さまざまな証言や論説を聞いたり読んだりして、6年前と比べて理解は進んだと思う。)

三は、特に、それまでになかったツイッターの絶大な力と効果が紹介され、大いに刮目した。

 以上三点は、率直に言って大いに驚かされたし、毎週の授業が楽しみで仕方がなかった。その時提出された期末レポートも、大変興味深く、中身のあるものばかりで、当時も冊子のようなものをまとめたらおもしろいのではないかと思った。

 ただ、中には、プライバシーに関わることに敏感な学生もいたし、レポートの中身には、かなり際どい叙述もあって、公刊したいという衝動は抑えざるを得なかった。しかし、機会があれば再度このような授業をやってみたいと考えるようになった。

 その後、コースの再編があって、「現代文化構造論基礎」を担当することはなくなってしまったのだが、このような演習をすることによって、受講生の間で様々な比較をすることになるのだし、それがやがては堂々とした「比較文化論」として結実する可能性はある。そのうちに「比較文化論」で同様の授業を開講してもよいのではないかと思うようになり、今回の開講となった。

 さて、六年前の授業から窺えた上述の三点については、実は、今年度の受講生の発表(とレポート)からも窺えた。特に顕著だったのは、本冊子のレポート集を読んだら歴然とするが、三のSNSの力である。学生の中でのツイッターの存在感は六年前より格段に増大したように見える。一と二は本書に掲載したレポートだけからではあまり明確には伝わらないかもしれないが、授業や課外交流会でははっきりと見て取れた。

 SNSに必ずしも親しんでいない私にとっては、ツイッターで知り合った見ず知らずの他人と会うのは、非常に危険であるように思われた。相手が恐ろしい悪意を持っていないとも限らないからである。実際、SNSを利用した信じられないような凶悪な犯罪が起こっている。

 むろん、SNSを介在させない、普通の旅行などでも、おぞましい犯罪の被害者になる可能性はいくらでもあるのだが、SNSによって、趣味の同好者と知り合う千載一遇のチャンスとともに、悪意を持った恐ろしい他者から危害を加えられる危険性も、同時に一気に拡大したように思える。今後、SNSを利用した活動は、そうしたリスクを十分踏まえたうえで行ってほしいと思う。

 あと、これまで印象に残らなかったことで、今回印象に残ったのは、受講生の両親(や肉親)の存在感である。私などは、学生時代(35年以上前になるが)、自分の親のことを人前で話すのは非常に抵抗があった。それはとても恥ずかしいという感覚だった。親のことを肯定的に話すのは、まるで自分は自立できていないこどもであることを自ら認めることのような行為だった。

 ところが、今年度の受講生の発表では、しばしば、自分の文化的体験において、父母からの影響や推薦・勧誘があったことがごく自然に披露された。この間には、日本社会における家族内の親子関係の変質という事態がありそうである。

 とは言え、おそらくそれだけではない。親の世代自身がーーちょうど私は彼らの親の世代に当たるのだがーーサブカルチャー体験を豊富に持つようになっただけではなく、堂々とその種の体験を恥じることなく語るようになった、という変化があるように思う。

 サンリオのキティに対する私の感覚が、無関心あるい拒絶(大人の女性がそのグッズを持っているのは「少女(子ども)」っぽいと違和感)から許容(持っていても自然)へと劇的に変わったのは、40歳に差しかかろうとする2000年頃で、そのころには、世間的にも、サンリオショップが渋谷駅構内にあったり、海外でも知られるようになっていた(2001-02年に大ボストンでよく見かけた)ように思う。

 今回新しかったのはあと一つ。留学生の存在である。元来中国の学生の感覚や志向、文化的な活動には関心を持っていたのだが、授業のような場で、あまり詳しい話は聞いたことがなかったし、日本で生まれ育った学生と留学生の間で、どのようなやり取りがなされ、どのような交流が発生するのか、大いに興味があった。

 その意味では、授業でのやり取りや、あるいはレポートを読んだ上での応答や反応も記載できればよかったのだが、上述のように、受講生の発表がとにかく面白かったので、その面白さの公表をただただ優先させた。私の「腐女子」心理に対する理解が深まったように、日本の大学生の海外(今年度の場合三人共中国語圏)の大学生ーー厳密には大学院生にあたるがーーに対する理解も、その逆も、もっと深められる余地はあっただろう。が、現時点では、残念ながら、それは今後の課題として持ち越すしか無い。

 東大の学生と中国の学生との交流ならば、LAP(リベラル・アーツ・プログラム)による南京大学との学生交流が3月と11月に行われている。

 3月は東大の学生が南京に行って、11月は南京大学の学生が東京へ来て、当地で混成チームを組み、短期のフィールドワークを行っている(3月の南京では1週間、11月の東京では数日間)。この学生交流には、ゼンショーからの寄付金等と、スタッフによるかなりの手間がかけられているが、それに近い効果を、今回のような授業の中でもあげたいものだと思う。

 もちろん、今回の授業のような交流の形態は、かなり限定された特殊なあり方である。海外の学生と言っても、三人とも日本に対する知識をあらかじめかなり備えていて、わざわざ日本へ留学に来ている日本語のできる学生ばかりである。

 発表やレポートに表面化していない留学生の文化的社会的バックグラウンドを、もっと効果的に受講生全員で共有することができたなら、もっとおもしろい「化学変化」が起こり、もっと「比較文化論」らしい有意義な成果になったかもしれない。

 

レポート本文

https://www.dropbox.com/s/9j9xyyzgbceodao/culture_report_2017.pdf?dl=0