東大駒場カルチャーレポート2018(2)昨年度との違い

 さて、東大生に自分の文化体験を発表してもらう授業だが、今年度の授業と昨年度とを比べると、大きな違いがいくつかあった。

 

①受講者数:昨年度11名 ⇒ 今年度5名

②受講者分布:昨年度〜本郷の諸学科の内定生(2年生)が多く、大学院生もいた。

  ⇒ 今年度〜駒場の教養学科の学生(3年生)が多く、大学院生不在。

③今年度は、各自の発表の前に、過去のレポートを読んで意見を交わす期間を置いた。

④今年度は、各自の発表が、ほぼレポート状の文章として事前に提出された。

⑤両親や肉親の存在感:昨年度は大きかった ⇒ 今年度は不明

 

 ④のようになったのは、おそらく③のような期間を置いたからであろう。そして③のような期間を置いたのは、①のような受講者数だったためである。⑤が今回はっきりしなかったのも①が原因だろう。

 つまり①の受講者数が今年度と昨年度との大きな違いを生んだと言える。それは、シラバスの説明文が引き起こした結果かもしれない。

 昨年度は自己の文化体験の歴史化ということをテーマにしたが、今年は、歴史化ということを前面には出さず、互いの体験の比較、ということを前面に出した。

 昨年度の歴史化というテーマのほうが相対的に多くの学生を引きつけたようである。

 

 今回歴史化ということを前面に出さなかったのは、この授業が、専門的に研究を深めるための授業として構想されていなかったからである。

 昨年度の授業で明らかになったのだが、各自の文化体験を歴史化しようとすると、どうしても、専門的な探究が不可欠になる。受講生は自身の体験を歴史化するだけの専門的スキルを(まだ)持っているわけではないし、十分な時間をかけて調査する準備も態勢も整っていない。もちろん、社会学内定生などはそれがある程度可能だったかもしれないし、結果として、昨年度の受講生のうち何人かは、驚くべき緻密さと詳細さでもって自身の文化体験の背景や文脈を探究し、重厚なレポートを寄稿してくれた。

 しかし、受講生の体験内容は様々な分野・領域に広く渡り、開講責任がある私には、残念ながら、それらをカバーし適切に指導できるだけの幅広い知識や十分なスキルがなかった。

 となると、体験談が中途半端な調査レポート、あるいは生煮えで説得力のない分析に近づいてしまい、せっかくの魅力的な体験談が色あせてしまいかねなかった。

 今年度はそれを避けて、取替不能な、言わばかけがえのない一人ひとりの生の体験談を交わす機会にしたいと考えたのである。

 

 しかし、今回のレポート集を読めば分かる通り、受講生たちは、結局のところ、自身の文化体験を歴史化し分析することへの魅力を捨てきれなかったようである。

 あいかわらず、体験談としての魅力は大いに発揮されているが、レポートの中で示された分析や見解、歴史的概観については、今後専門的に検証される必要がある。そのことを受講生は十分自覚し、それらを個人的な仮説として今後も継続して検証していってくれるよう願っている。

 

 そのような専門レベル未満の調査や分析を、大学の教育課程の中でどのように位置づけたらよいのか。授業開講責任者としての私に残された課題はなかなかに難しいものがある。 

 今後私に必要なのは、問題解決型の報告をしようとする学生に釘を差し、問題発見型の報告にまとめるよう、粘り強く求めるということくらいだろうか。

 いずれにせよ、学生は体験談を語ることによって、自身の文化的背景(の少なくとも一部)を相対化し客観視することができるとは言えるだろう。

 それは、今後、研究主体として、あるいは、社会構成メンバーとして自己実現していく受講生にとって、十分意味のある象徴的なもの(直接特定の何かに役立つのではない「教養」)として、彼らの内に残っていくのではないだろうか。それを私は期待している。

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